秤屋会長のひと言

守随家と徳川家との係わり合い


史実によれば、圧倒的な物量を誇り、戦争技術に長けた織田および徳川連合軍の攻撃により1582年、武田勝頼、天目山に自刃する。ここに武田家は滅ぶわけです。

そして、その翌年、1583年、徳川家康、朱印状を発し、自領のすべてのはかりの規格を統一し、守随家に一任するという決定を下しております。それまで、幾たびと苦杯をなめさせられた、難敵の家臣であった、守随をなぜ、わざわざ採用しなければならない必要があったのかということです。理由としては、当時の家康には領土拡大に追いつく人材が少なく、武田の遺臣を大量に採用せざるを得なかったというように聞いておりました。しかし武田家滅亡のすぐ、翌年待ってましたとばかりに守随家を三河に呼び出して命じたと史実が言っております。これは、かねて不思議に思っておりました。後年、別の史料を偶然目にしてその疑問が氷解いたしました。



これまた、武田家の親子の相克が招いた因縁といえましょうか。なんと、信玄は自分の父親である、信虎を謀略によって、武田家棟梁の座から引きずり落とし、自領から追い出しております。信玄のクーデターにより、やむなく信虎は、少数の供を連れて、今川家を頼って、駿府に落ちていきました。そのとき伴として付き従ったのが、吉川守随家の祖であります。(信玄は自分の子にも自分と同じ幻影を見たのでしょうか?信雄を自決させましたね。)

それがどうしたということになりますが、なんと、幼少時代、人質として、家康がたまたま、同じ今川家に蟄居していた。そこで、今川の客人として、交流があったということが縁となり、史実によれば、"家康公幼少のみぎりを懐かしみ、守随を召しだされる"とありました。これが、守随家、はかり座開闢の発端となっております。ここまでは結構面白い歴史読み物ではありませんか?

しかしよく読んでみれば、戦国時代の支配階級の親子というものは現代では到底想像もつかない、食うか食われるかのすさまじい闘争のなかに生きていかねばならない宿命を負っていたのだなと痛感させられます。それでも、信玄が直孫を殺さず、家臣に養子として下した決断は、歴史的にみれば、武田の血統を守るについて、大きな成果をあげたことになります。武田家が勝頼をもって断絶したかに見える歴史の裏面にはこのような意外な展開というものがあるものなのですね。

即ち、武田家の直系が守随と姓は変われど戦国時代を生き延びただけではなく、徳川幕府統治下で、江戸城下、金座、銀座と並んではかり座を管掌し、重要な行政官僚(10万石待遇)として力を発揮し、幕末以降も、現代まで連綿として血統を伝えているわけです。これで、武田、守随、今川、早川、の四角関係がお分かりいただけましたでしょうか?このような裏面史は、ほとんど世に知られることなく、歴史の奔流の中に消滅していってしまうものですね。まだまだ書き足りない部分もありますがこの辺りでちょっと一服。 




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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