秤屋会長のひと言

愛知県はかり工業協同組合について


これまでのブログ記事の中でもっとも読まれそうもないような見出しの記事でありますが、あえて書かせていただきます。これは一つには、現在小泉総理による徹底した市場原理による国家経済運営が至上のものとする風潮に対して一石を投ずるつもりの一文であります。



つまり、弱者切捨ての結果が招来するであろう、経済衰退現象を憂えてあえて書かせていただきます。

去る1月22日、わが協同組合は、結成以来、40周年を記念して、マリオットアソシアホテルにて、会合を開きました。この日は現役社長以外の二世、奥さんなどを帯同してのにぎやかなお祝いとなりました。理事長以下、ご来賓などのご挨拶を頂きましたが、肝心のこの組合が誕生したいきさつについてのコメントが誰からもでてこない。

とうとう、挨拶の終わりに近づき、私に、乾杯の音頭をとれという段取りになりました。そこでこのままではまずいと思い、乾杯の音頭の前に、少々お時間を頂き、この組合結成のいきさつを説明させていただくようお願いいたしました。

他県のはかり業界を見渡しても、愛知県のように、協同組合まで結成している所はありません。なぜ愛知県のみにこのような組合が存在するのでしょうか?話しながら、会場を見渡しても、誰も知らないこと明白でありました。



そもそも、40年前といいますと、東京オリンピックが昭和39年、その翌年、昭和40年がちょうどその時になります。

当時小生はまだこの業界には関係なく、他社の飯を頂いておりました。ご存じないかもしれませんが、オリンピックの翌年、日本経済は、オリンピック景気の終焉を迎えると同時に深刻な不況に突入いたしておりました。現在から思えば、まだまだ脆弱であった日本経済は、失業と、企業倒産の嵐に見舞われておりました。

私の、父親が現役のこの頃、はかり業界もご多分に漏れず、深刻な需要不足に直面し、製品の投売りは横行し

、これまで値崩れのしたことのない、修理事業にまで、混乱が始まりました。相場らしい相場はもともとなく、常識範囲の修理価格で地場のはかりやさんは生計を立てていたのでした。結構、これはこれで、うまみがあったものと思われます。しかし、40年不況では、この聖域にまで貧乏神が入り込んできました。これまでの常識的な修理価格の半額はおろか、3分の1、果ては、ただもでる始末。この場合は、後に何か注文を期待してのものでしょうが、とにかく、このような競争が果たして市場原理なのでしょうか?地場のはかりやさんは存亡の危機に立ちました。このとき立ち上がったのが、われらが、先代の親父さんたちです。とりあえず、この地域のはかりやさんの常識的な価格というものを決めて、それを遵守し、お互いに値崩ししないという紳士協定をまず結ぼうというころから始めました。まあこんなことで、値崩れしなければ結構なことですが、これをどのように担保するかというところで壁にぶつかります。そこで、当時、はかり業については、政府による許認可事業の時代でありますので、まず、県の所轄にお伺いを立てます。県としては、産業の基幹となるはかり業界の危機存亡のときでもありますので、できる限りのことはしたいということになります。ただ、はかり業界の談合による、不当利益の獲得に力を貸すというようなわけには行かないということになりました。独占禁止法という法律は厳然と存在しているのであるから、そちらと相談して決めたらよかろうということになりました。念のため、業界に関係のある、政治家を通して、業界の苦難の説明を、関係機関に説明していただき、公正取引委員会から、2つの条件付で認めるという判定を頂きました。 1、公正かつ合理的な原価計算に基づく価格体系の構築。これについては、県内の主力となるはかりやさん数社より、修理に要する平均的なコストを提出してもらい、標準的な価格表を作って下さい。評価は委員会でいたします。これはこれで、いろいろと手数が掛かりました。

2、せっかく決めても、それが守られなく、むしろ独占状態を利用して価格の吊り上げになっては困る(当時の状況ではありえませんでしたが)ので、いまのような任意団体のままでは困るということになりました。法律的な裏づけのある団体を形成し、責任義務の関係を明らかにしてくださいということになりました。

そこで誕生したのが、愛知県はかり工業組合というわけなのです。これでようやく辿り着きました。このようないきさつで、我がはかり工業組合は誕生いたしました次第であります。

効果すばらしいものでありました。市場原理が優れたものであれば、存亡の危機に立つようなことはないはず。あのまま放置すれば、企業数は半減し、長年かかってしか養成出来ない技術者は流失し、はかり業界の技術レベルは復元できないダメージを受けたことになるでしょう。

40年たったいま、出席したメンバーの中心は、そのときの紳士たちの直系のものばかり。この地域での修理価格は40年たったいまも、公正適切な伝統を守り抜いております。それも意識してではなく。さらに、よいことは、お互いが40年をけみした現在、製品についても、見事に住み分けており、勿論集団エゴである談合など一切なく、それぞれ得意とする分野に活躍しております。

ここで我々は、先代たちが危機の時に、見事に結束して業界の秩序と安寧をもたらした、その実行力と判断力に畏敬の念を覚えるものであります。

世界の市場には通用しない狭い領域の問題かもしれませんが、我々の大半はそういうところで生活しているわけです。このようなスピーチをもっと簡略化して述べました。




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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