秤屋会長のひと言

歴史に学ぶ組織強化法(4)


それでは、秀吉はどうでしょうか?それこそ、織田軍足軽歩兵の義理の息子という、社会の最底辺の階層から、身を起こし、当時の、堅固な階級社会の壁を破って、人臣としては、最高位の関白太政大臣にまで登りつめた偉業は、空前絶後というほかありません。しかしその秀吉ですら、一子も、血統をのこすことができなかった。生前作り上げた、組織は、没後、数年しか維持できなかった。しかし、信長の悲劇は目前にしているだけに、合議制の形を組織した。五大老、五奉行制である。天下の大事は五大老がさばき、行政上のパーフォマンスは,五奉行が実行していくという、それまでにはない内閣官房の権力構造を組織したわけです。その頂点に豊臣秀吉が、いわば、大統領として君臨していた。一応、合議制の形をとっていたものの、ありていには側近政治で、ワンマン大統領秀吉の思うがままに、権力は行使されていた。通常の政治運用ならばこの組織は、まったく問題ないのですが、その致命的な欠陥の現われが、誰が見ても無謀な、と思われる国運をかけた朝鮮出兵です。これが合議によって阻止できなかったこと。さらに不運なことに、戦役を実行中に、当の本人が死去してしまった。ろくに、根回しも合議もできていない実行不能に近いプロジェクトは一挙に雲散霧消となります。ワンマン社長の暴走を合理的に阻止できない組織では、これは存在意義がないということです。ダイエーの悲劇を思い起こしますね。



この情勢から、組織内部の欠陥を洞察した、徳川家康は、巧みに分裂を誘導して、豊臣勢力を分断撃滅します。そして、ついに、天下取り成就となりました。



諸先輩の失敗から学んだ家康が作り上げた組織は、以後、250年の長きにわたる平和国家を築き上げました。これも並大抵の業績ではありません。その根幹をなすものは、前二者の、成長至上主義を捨て、循環社会を至上のものとする根本理念とした社会構造にもって行ったということです。その根本思想を保障担保するために家康が描いた権力構造は、創業一家がでしゃばると、組織が崩壊するという前轍を踏ませないため、4~5人で構成する老中という内閣制であります。それなら、前二者と同じではないかということになりますが、この内閣は、創業者の子孫である、将軍様からの干渉に対して拒否権を持たせたのです。つまり,老中会議で決せられた事項は、将軍様といえども従わなくてはならないという鉄則を設けたということです。これは井沢先生が強調された重要なポイントであります。



組織の意思決定は、ただ一人の偏った意思に従うのではない、柔軟かつ自由なデスカッションを経て決定されるという原則。いったん合議され決定されたことに対して、将軍様は従うということです。独裁国家としての欠陥を救う安全弁が仕込まれたわけです。その上、家康の巧妙なところは、儒教精神を取り入れ、成長方向への傾斜は禁忌したということです。こうなれば社会構造や階級は固定化しますが、安寧秩序は保たれやすいということです。とにかく250年続いた組織というものはいろいろな角度から分析すべき、歴史的合理性があったということでしょうか。それにしても永遠に続く組織は歴史上ありえないということも痛感させられます。組織が、不易と見られる原理原則を持ち、常にそれを参照しながら、独断を避け、合議制を基に諸事決定していくことが、古来からの日本人の特性にもっとも合致した組織運営となるということでしょうか。



こんなことを、井沢先生のご講演を拝聴して触発された組織のあり方への私なりの考察といえましょうか。ご意見等ありましたら、忌憚なくお申し越しいただきたい。ますます研究が進むと思われます。よろしく。(つづく)




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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