秤屋会長のひと言

世にも不思議な物語


昨年、講談社さんから、「老舗の底力」全国123社というテーマにて,単行本が上梓されました。日本全国で100年以上の事業歴を持つ123社の紹介が内容となっております。



そこに、愛知県としては2社が紹介されておりました。その1社が、岡崎に本拠地を置く、八丁味噌、角九さんと、筆者が代表を勤める守随本店であります。大変恐れ多いことなのですが、どこで調べられたか講談社に問い合わせたところ、東京守随さんより、わが社を紹介されたということでありました。本家は事情があって、1980年代に、廃業いたしておりましたので、やむなく我が社の方に振ってこられたものと思います。



名古屋の守随の由来は、本家はかり座、三代目の当主の三男が、尾張公の要請により、尾州はかり座を開設したことに始まります。西暦で言いますと、1658年旧暦の1月と言うことであります。この年は、明暦四年という通常の暦史書では存在しない年度なのですが、1月だけの元号であります。あとの11ヶ月は万治元年ということになっております。



なぜ、この年に、お江戸より、尾州名古屋に分家ができたかでありますが、これは有名な史実がございます。いわゆる、振袖大火という大災厄がこの前年の12月に江戸の街を襲い、冬特有の空風によって煽られ、燃え広がり、火災は街の大半を覆い、死者10万人を超すという、空前の大災害となりました。その結果、木製品であった、はかりも大量に消失し、経済活動に支障をきたすことになりました。守随はかり座は全力挙げて、はかりの生産に取り組んだのですが、何せ限られた生産力に対して、突発事故による、江戸市中の爆発的需要に応じるのに精一杯で、地方からの需要に対しては全く応じることができなくなりました。地方でも経済活動の活発なところでは、やはり、はかりがなくなっては困ります。当時、金座、銀座、はかり座として、それぞれ、権現様(徳川家康公)お墨付きの権威を誇っておりましたわけで、地方への分家など考えられなかったらしいのですが、御三家筆頭の尾張公の強い要請もあり、やむなく、幕府は許可を下ろしたといわれております。確かに、それまでは、みだりに許可をおろして、品質上の問題など起こしては、度量衡制度の根幹をゆるがせかねないという判断もあったかとも思われます。当時、尾張地区には優れた技術を持った手工芸職人が多数居たということも幸いしてのものともいわれております。産業技術史の学者に寄れば、中部地区の各地に今でも残る、からくり人形などの、木工による、ロボット製造技術がこの地に発祥し、幕末に向けて、大繁盛したという土地柄でもあります。余談になりますが、このからくり人形を動かす、木製歯車の技術は、当時としては世界最高水準にあったのではないかといわれております。この歯車技術が、明治時代になって、豊田佐吉の全自動織機の大発明に結びついたといわれております。いまや、世界の自動車産業のトップ企業となった、トヨタ自動車の揺籃の地ともなっているわけです。



3年ほど前に、筆者が属している、異業種交流会の企画で、岡崎の八丁味噌さんを見学するという催しがあり参加いたしました。この会社とわが社とは、1980年代にお取引が始まり、以後、つぎつぎと、はかりの納入を通じておなじみの間柄となっておりました。しかし、出入り業者ということで、社内の見学などはしておりませんでした。この機会にと考え、参加したしだいですが、岡崎での観光コースとして、工場全体が、テーマパーク化しており、江戸時代の味噌職人たちの、蝋人形などが並んで、往時の製造風景を再現いたしておりました。社員のガイドさんも、なれた調子で、次々とシーン別に解説を続けられ、あるところへ参りましたら,そこには、大きな新聞掛けみたいな,架台に、棒はかりが四丁掛けられておりました。特にその秤についてはガイドはなかったのですが、筆者としては、当然、興味を持って確かめました。ひも付きの分銅もおいてありました。その製造印を見ましたら、守随と銘が出ておりました。



古いのは、当然、明治以前に作られたものです。確かめると、四丁ともに、守随製というわけで、思わず、ガイドさんにそのことを告げて、守随の人間ですと名乗り名刺を差し出しました。途端にガイドの女性さんは口あんぐり。あっという間にどこかへ消えたと思ったら、40歳前後の、中年の男性を伴って現れました。その方は、八丁味噌、角九、19代目の当主と言う肩書きの名刺を差し出され、丁重なご挨拶を頂きました。早川九右衛門と書いてありました。昨年でしょうか、NHKの朝の連続ドラマで、大正時代から、昭和の戦後の時代までのこの八丁味噌さんの苦難の歴史が取り上げられて、ちょっとした、ブームを呼んで、全国にその名は知れ渡るようになりましたことは、まだ御記憶に新しいことと思います。この時点ではまだ一地方の有名味噌やさんと言うところでしたが。今川浪人の御先祖が、この地に土地を求めて入植され、矢作川の豊富な伏流水と、濃尾平野から産する大豆、三河湾沿岸の塩、良港に恵まれた立地から、味噌醤油の製造業に目を付けられ創業されたとのことなどうけたまわり、守随とは先祖代々のお付き合いであったということをお互いに懐かしみました。筆者としては、思いがけぬ展開に驚くと同時に、1980年代に、当時最新鋭のコンピューター制御の、味噌原料自動混合計量装置を納入したのが始めてのお付き合いと思っておりましたことが意外な展開となり、不思議なご縁に感動いたしました。八丁味噌さんの御先祖はこの地に、1640年代後半に入植されたということですので、わが社の創業1658年とは至近の時代となります。場合によったら300年以上のお付き合い?ということになりますね。



歓談の末、6月の雨降るなか、傘をさしてのお見送りを受けながら八丁味噌さんをあとにしました。勿論多数のお土産もいただきありがとうございました。



とこの辺でこの稿は終わりそうなのですが、実はまだ話が残っているのです。筆者の姓はやはり、早川であります。先祖は駿河の今川の一族という伝承がのこっており、4代将軍足利義満の時代に、有名な、今川了春貞世という武将が直系の祖ということらしいのです。やはり、桶狭間での敗戦のため、その子孫は今川浪人となり,浪々の末、尾張の横須賀に土地を求めて、郷士として入植したといわれております。負け組みとしては、今川の姓ははばかり、早川に改名したそうであります。八丁味噌さんの早川も、おそらく同じような経緯ではないでしょうか。



あまりにも、符号が合いすぎますね。御先祖はもしや一緒ではないか?と考えてもあまり無理はないように思えますが、いかがでしょう?もともと、今川の領国であったところに居を構えたというところなどなんとなく理解できますね。こうなりますと,守随と八丁味噌さんとの300年の交流、現在の両社の代表同士が、さかのぼれば、ひょっとして親戚同士という奇しき因縁に結ばれていると言うお話しでございます。さらに言えば講談社さんに、愛知県で老舗としてこの2社が選ばれたということも偶然とはいえ、世にも不思議なお話ではないでしょうか。




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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