秤屋会長のひと言

不都合な真実2


この家族旅行では上高地温泉ホテルに宿泊いたしました。家族が旅行を計画しているとき、私が無類の温泉好きということで、温泉がついている旅館ということが選定の基準ということになったようです。宣伝するわけではないのですが、久しぶりに、源泉掛け流し温泉という贅沢をあじあわせていただきました。また、そのホテルは、山岳景色の現役風景画家5人衆の拠点ホテルということで、1階のロビーから廊下の壁面に、穂高、槍ヶ岳など、迫力満点の絵画や、写真が掛けられておりました。これもなかなか見ごたえのあるものばかりで、思わぬ出会いに感銘いたしておりました。さらにはこのホテルそのものが幕末ごろには開業していたということで、明治、大正、昭和を代表する文人、歌人、画家たちの定宿になっていたらしく、その人たちの短歌なども、大きな桧板に書かれたものが浴室の中やら、色紙に直筆のものやらと、展示されておりました。前の稿での若山牧水の短歌もそのひとつです。



 さて初日の夜のことですが、夕食が終り、あたりに夕闇が迫り始めたころ、館内アナウンスで、旅館の玄関前の小川に蛍が出てまいりますという。これも予定外のことで、この高地(海抜1500メートル)で蛍とはと驚きました。それから30分ぐらいしたところで、あたりは闇に包まれ始めました。再度アナウンスがあり、蛍の光をより効果的にするために、小川に面する部屋の照明をお消しくださいとなりました。なかなか、演出効果満点です。



 しかも、出ている時間も2時間ぐらいとのこと、旅館側が用意した懐中電灯を手に出かけました。歩いて100歩ぐらいのところに小川があります。田舎へ行けばどこにもあるようなたたずまいの小川です。行った時にはまだでていなかったのですが、10分ほど待っていると、歓声が上がりました。ひとつだけ、闇のなかにぽつんと光りました。すると、それに呼応するかのようにあちらの茂みこちらの茂みから、一匹、2匹と浮かび上がってきます。そのたびに歓声です。後はもう勘定し切れません。しかも、旅館前、たった100メートルぐらいの流域の間だけしか発生しないのです。私としては、もう60年以上お目にかかったことのない蛍の饗宴に思わず自然豊かな子供の時代を懐かしく思い出しました。



その現場で、旅館の支配人が出てまいりまして、私と交わしたお話がこの稿の締めくくりとなるものです。どこで捕らえたのかわかりませんが、両手に囲って蛍を一匹もって、私たちのいるところへきてくれました。孫がまだ3歳ですのでこれが何かわかるのどうかはともかく、クリスマスのイルミネーションぐらいしか知らない小児には、虫が光っていることは、やはり驚きであったらしく、親を見上げて声を上げていたことから十分推察できました。やがて、開いた両手のひらから蛍がふんわりと舞い上がって高く遠ざかっていく様を見つめていました。そこで、支配人に、どうしてこんな高所に蛍が出るのですかと問いますと、実はこの小川には温泉が発生しており、そばを流れる梓川より10度以上も温度が高く、えさになるカワニナが生育できるらしいとのことです。日本でこの高地で蛍が出るのは志賀高原とここだけということです。貴重な自然遺産ですねと水を向けると、いやこの維持が大変なんですという。川の流れが、阻害されると、巻貝のカワニナが発生せず、えさ切れとなって蛍が死んでしまいます。それで毎年、4,5月ころに菖蒲などの草が水中に発生すると、旅館の方で,何度も、水中に入り雑草を含めて抜き取りをしなくてはなりませんという。もう私たちも段々歳をとってこの作業が負担になってきているのですという。いつまで続けられるかわかりませんとのこと。しかし若い人たちが沢山働いているのに手伝ってくれないのですかというと、あの人たちは忙しいときだけに手を借りているだけで、普段の時はいないそうで、戦力にはなりませんとのこと。いやまたここでも貴重な自然が失われていく可能性が出ている。蛍もレッドノート入りかと情けなくなりますね。ちなみに、この上高地の行政管轄は松本市となっております。どうか、この貴重な自然を守るため何とか予算化できないものでしょうか?また全国から自然保護のボランティアを募り手入れしたらどうですかと支配人に提案いたしました。どうもまだ、自分たちの手でなんとか、維持していこうとするお気持ちであったように見受けました。1年で、2週間しか鑑賞できない蛍のショーが末永く続かんことを祈りつつ山を降りました。そこで一首、

幾千の御霊を宿し 舞う蛍 闇のまにまに 浮きつ沈みつ

やはりこの旅館にあった一首、

この部屋を 受け持つ乙女の ものごしも 朗らかにして 山のはなしす

斉藤茂吉




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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