秤屋会長のひと言

国内最大級吊はかり100トン(4)


さていろいろな障害を乗り越えてようやく、見積もり可能な状態になったわけですが、受注までの経過は残念ながら聞いておりません。ただ、三菱関係の会社には戦前より口座があり、購買部は守随本店を認知して見えたことは間違いないと思われます。ちなみに、守随本店に入社直後、顧客回りの最初に連れて行かれたのは三菱重工、岩塚工場でした。暫く、担当もいたしました。



おそらく発注側も、地方の小さな会社にこのような大物を任せてよいものか相当、もめたのではないでしょうか?容易に推察できます。大英断で発注というところではなかったか?多分、応札するところもなかったのではないか?



製作工程でも相当問題があったようですが、当時、戦地より引き上げてきた若いはかり職人さんが多数いて、大物受注に気を良くして、熱心に取り組んでくれたそうです。さてモノはできたが、最終工程の検査段階が先に書いたように問題です。当時のはかりは、テコ式はかりで、現在のように自動的に重量をつりあわせデジタル表示することなどできません。分銅を吊り上げた段階で、誰かが、ハカリの釣り合いを出すためにはかりの計量棹の送り錘を手動でおくらなければなりません、はるか上空に吊り上げられたはかりに誰か1名が密着していないとできません。そこで、はかりの前面に椅子を作りつけることになりました。



多分若い職人の見習いさんあたりがその椅子に座り、一定の分銅が、吊り下げられると、おくり錘をその重量位置まで運び、バランスしているかどうかを確認するという作業を1トン刻みで積み増し40回以上行なったわけです。調整段階では、分銅重量と計量棹とが必ずしも一致せず、そのつど分銅をおろして、計量棹の調整を行なわなくてはならない。今では考えられない忍耐と労苦があったものと推察されます。しかも分銅のあげおろしには、人夫さんたちが群がって作業するわけです。発注側の関係者など、見物人にも事欠かない。さぞや気合の入った鉄火場だったことでしょう。しかもあまり長い間は借りていられない上、屋外作業ですから、天気も大いに関係してきます。雨ばかりではなく風も困るといった状況です。事実1日が風に悩まされたといっておりました。さてどうにか製作調整段階が終わっていよいよ、最大の難関の検定をうけることになります。果たして検定官がはかりの席にまで上ってくれて計量精度の確認をしてくれるものかということになりました。恐る恐る伺いを立てましたところ、やはり乗らない、守随側で代行せよという指示が出ました。ではどうして検定は誰がするのですかと問いますと、望遠鏡を持って、離れたところから分銅重量と、つりあっているかどうか計量棹の送り錘の操作などを観測するという回答でした。



確かに重量が増えるに従って、ワイヤやら、分銅のせ盤などのぎしぎしがりがり音が始り、とっても危険な雰囲気となります。ワイヤが切れようものなら落下事故となり、大事故につながります。それでも、検定官も朝から夜までかかった作業に根気よくつき合ってくれたそうです。



そして60年後の現在にワープいたしますと室内にセットされた、油圧式大型試験機で、100トンまでに検査は5分とかかりません。一人でできます。はかりの原理が全く変わり、自動的に負荷に対して、電気的につりあい、重量がデジタル表示いたします。その数字と試験機の基準ロードセルが出している数値と一致するかどうかを確認するだけです。一致していなければ、ラジオのボリュームをひねるような操作で一致させればよいだけです。科学技術の進歩というもののすごさというものを実感できます。さてこうして書きながら、当時の頑張った人たちで、もうこの世にいる人は一人としていないなと思い至り、静かにご冥福を祈る気持ちになりました。合掌。 



終わり




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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