秤屋会長のひと言

徳川美術館をたずねて(4)


要するに、宗春侯は200年以後のケインズが唱え世界を変えた、投資による乗数効果をすでに承知していたということです。引き締めれば引き締めるほど経済は萎縮していきます。マイナスの乗数効果です。確かに収支は合っても経済の萎縮による弊害は弱者には強烈に作用します。しかし同じ時期、宗春侯は、七代藩主に就任するや、自らの政治理念を記した『温知政要』という著書を出版。二十一カ条を発表。身分に関係なく、個性や人命を尊重すべきという人権思想を表明。--絶対君主が自ら、現社会体制に逆らう発言をあえてするなど、ルソー顔まけには当時の人も驚いたことでしょう。しかも、規制を緩和し、積極消費を促すことにより社会は活性化するものだという主張を行っている。このあたり昨今の英明?な政治家が唱えていることと同じではないですか!驚かされます。しかも唱えているだけではなく、驚くべき実行力で次々と具体化していく。いまどきの先送り政治家にはない確信犯的行動力です。これは吉宗が進める改革政治に対する真っ向からの批判となります。



徳川美術館で入手した、「名古屋時代マップ」光村推古書院発行の文章をお借りしてこのあたりのことをご紹介申し上げます。

74頁:『独自の理念に基づいた自由化政策を、宗春は名古屋城下で次々に実行していく。倹約令のもと縮小されていた祭りや盆踊りは、派手に盛大に。芝居小屋を増設し、武士の芝居見物の禁も解いて芸能を盛んに興した。また、吉原などの幕府許可の地以外では禁じられていた遊郭を、富士見原・西小路、葛町の三ヵ所に設置。城下は夏には連日花火が打ち上げられ、提灯や行灯が煌々と輝き、三味線や太鼓がにぎやかに鳴り響いていたという。』さてその結果はどうなったかであります。もともと、家康を始祖とする徳川家は質実剛健を家訓としているような地味な家系の中に異端児が生まれたわけです。



何事も、ことを行えば、必ず明暗をともなって現象化いたします。花のお江戸はまっさかさまに不況のどん底へ突入。かたや尾張名古屋は好況の大波に乗せられ、花のお江戸の賑わいはそっくり尾張名古屋に引っ越しということになりました。バブルの発生です。同じ日本で、かたや真っ青の大不況の江戸、かたや飲めや歌えの舞い上がりの尾張名古屋が共存しているという経済現象としては不可思議なことが起きました。これは多分、地方分権の徹底していた、当時の政治経済社会の特色なのではないでしょうか?それと、幕府自体の基本となっている、米本主義経済と名古屋は少々経済体質が異なっていたようです。これも初めて今度徳川美術館を訪れて知ったことなのですが、当時、尾張藩は全国でもまれな広大な木曽山脈系の豊富な木材資源を独占しておりました。これは上記の本によると、家康公は特に初代の尾張藩主をかわいがっており、この特権的な利権をわざわざ授けたそうです。どうしてこれが尾張藩の経済力を高めたかということです。もちろん尾張平野の領地は日本でも有数の農業先進国で、これからの揚りだけでも大したものですが、それに加えて、木曽のヒノキ材は、当時のインフラの建設にはなくてはならないものでした。つまり今でいう鉄鋼というものがなかった時代には、それの代わりが木材であったわけです。



それを独占できた尾張藩の経済力はこれは私の独断ですが、本家をしのぐものがあったのではないでしょうか?金や銀と違い再生可能な資源を握っていたのです。この経済力を信春候はフルの活用したのでしょうか?ただ名古屋だけで我慢しておけばよかったのですが、宗春侯は参勤交代で江戸に出てもご乱行はエスカレート。吉宗侯は木綿の着衣で、冬もあまり重ね着もせず、粗末な食事に甘んじているのにこれはなんだということになります。




35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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