秤屋会長のひと言

計量は兵站なり(2)

ここで時間を400年前に戻します。戦国時代、応仁の乱以来、群雄割拠、狭い国土に、一寸の土地を巡っての戦いが、命を懸けてせめぎ合っていました。局地戦から始まったこの乱は、15世紀後半に入って、群雄が淘汰され、本格的な日本という国土を巡る天下取りに絞られてきておりました。当時の群雄の中で、ひときわ際立っていたのは、越後の上杉謙信,甲斐の武田信玄、駿河の今川義元、尾張の織田信長、等々。これらの武将の志すところはライバルを総なめし、京に上って天子を擁し、天下に号令をかけるという野望にありました。さて前提はここまでとします。わが守随の創始者は、群雄の中で最も有望視されていた武田信玄の家臣でありました。はじめ、信玄の父である信虎の近習(吉川小太夫守随)として仕えていました。はからずも、信玄により駿河に追われた信虎に従って、駿河に赴き引き続き、仕えましたが、やがて今川家の要請により人質としてきていた徳川家康の世話もすることになったらしい。この縁が守随はかり座を徳川政権下で開かせるもとになったという複雑に絡んだ事情にあります。しかし今回はこの件について語るのではなく、なぜ、武田信玄の率いる軍隊が、ライバルの群雄に恐れられていたか、それは、やはり、守随の先祖が、駿河より、故郷の甲斐に戻り、はかりの製造を始めたことにより、飛躍的に兵站の在り方を変えたのではないかと推察しております。吉川守随氏は、3角測量もこなすほど、計数能力に秀でており、出撃する軍団の兵站を引き受け、多分計量器も含めたシステム的な兵站の準備に大いに貢献したのではないでしょうか?いつの時代にあれ、戦時には古今を問わず兵站に優れたものが生き残ったのではないか?信玄は帰り着いた守随を有無を言わず、すぐに採用しております。


 ただこの件に関しては確定した資料はありませんが、十分ありうることと捉えております。大胆に発想すると、吉川守随がはかりを製造始めたのは、兵站の準備のために計量器が必要になったからか。ちなみに、豊臣政権の時代に、いわゆる太閤検地を関西で行いましたが、すでに徳川家の治世下にあった甲斐より、検知に必要な測量技術者として守随はかり座の人間を貸し出したという文献が残っております。このあたりのことを調べれば戦国裏面史として面白い小説が出来上がるのではないかという気がします。


35年生まれの戦前派。早稲田大学政経学部で経済学を専攻。

略歴
60年中日新聞社入社。
67年(株)守隨本社入社。三県下に限られていた販域を全国区へ展開
74年同社常務就任:機械式はかりから電子式はかりへの転換にいち早く取り組み、成功。新製品を次々と発表。次いで85年よりプラザ合意後の円高を利用し、海外との交流を開始。海外優秀製品を日本市場へインプットし、吊り秤市場ではTOPのシェアを掌握した。
90年同社社長就任
以後、移動式計量機で産業界の物流システムに貢献した。
2016年代表取締役会長に就任
2021年代表取締役会長を退任

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