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守隨本店の歴史

昔も今も「はかり」は守隨

明暦四年(西暦1658年)の創業以来、「はかり」一筋350年、計量器事業に注力してまいりました。
ここでは、守隨本店の歴史をご紹介いたします。

少し長い文章となりますが、弊社にご興味をお持ちいただけましたらぜひともご覧いただければ幸いです。

守隨秤座の創業

武田信玄
武田信玄

天文年間(西暦1550年)甲州は名将武田信玄の治政のもと、その希有な政治的才能も相まって、大いなる繁栄をとげつつありました。
当時領国内に甲斐金山を有し、産出する黄金のために精密なる秤が必要とされていたこと、その反面、領国内に横行する種々雑多、粗悪な秤が、商取引の円滑な交流を妨げることを憂え、長男義信の長子(信)を吉川守隨家へ養子に下し、秤の製造専売権を与え(秤座の誕生)、規格の統一と品質の均一、向上を図り、黄金掛引秤を製造せしめたことにはじまります。


天正十年(西暦1582年)勝頼亡びて、家康公甲府に入った折、吉川守隨家を呼び秤座の家職を特許しました。その翌年家康公、江戸に幕府を開くや直ちに江戸に出府し、家康公より御朱印を允可され、金座、銀座とならんで守隨秤座を創業いたしました。



家康が、三河などに守隨秤を採用(天正11年・西暦1583年)

守隨秤

甲斐国内で使われていた秤を、家康が領国の公定秤と認定し各地の秤量を統一した。製造・販売者の守隨義信は信玄の孫で、前年の武田家滅亡後、家康の庇護を得た。
左の写真はその銀秤。少量の金銀や薬をはかる時に用いた。棹の長さは1尺。「信義」の銘がある。

名古屋進出

江戸に振袖大火のあった翌年、明暦四年(西暦1658年)に尾州候の要請により、江戸守隨三代目の子治郎右衛門によって、名古屋秤座を開き、以後明治初年迄12代にわたって秤をつくってまいりました。

秤師

さお式はかりの最終検査風景

菱形の紋のあるところから守隨系の秤師で棹を確かめているところであろう。
(『人倫訓蒙図彙』所蔵)

江戸時代から明治へ

江戸時代は幕府の手厚い保護下におかれ、明治にまで至りました。当時は、尾張秤座の当主は12代を重ね、折しも明治維新革命に遭遇し、新政府にとっては敵対者の徳川家で特権の下に過ごしてきている守隨家に関しては厳しい処遇が予想されましたが、逆に、度量衡の技術が守隨家に独占されてきた経緯から、他に代わり得るところがなく、むしろ手厚い保護下におかれました。

明治8年、度量衡法発布後、座として独占という特権は廃され300年の歴史は幕を閉じましたが、業務は以前と同様に引き継がれ、個人経営として名古屋市広小路通りに守隨本店の名称のもと継続いたしました。しかし、新しい分野である度量衡へ民間企業の参入によって、次第に守隨家は、西洋式秤を得意とするメーカーに押され苦境に陥ります。12代目は、この遅れを取り戻すのは簡単に行かぬと見て、これまでの自社技術が容易に応用できる、婚礼家具の製作に取り組み、大成功いたします。これで明治から、大正の後半まで悠々とつなぎ、同時に西洋式秤の製造に着手、新参組に対抗できるようになりました。明治から昭和の初期まで、秤製造業としては最大規模の100名ほどの職人を擁するまでに至りました。

戦争そして昭和へ

明治時代の社屋
明治時代の守隨本店社屋
(名古屋広小路所在)

1941年大東亜戦争が始まり、この頃、守隨家は13代、14代と代代わりをしております。戦争の激化とともに、秤生産に暗影が生じてまいります。職人の中で主力の若者が徴兵され、資材の供給も次第に窮屈になり、生産量は激減いたします。しかも14代目は、当時の国民病である、結核に侵され、病弱。出征することなく、昭和18年後継者を残さずに逝去、後継者として未亡人である守隨すずが15代目に就任、家業継続の責任を負うことになりました。翌19年(1944年)中部地区の軍需産業壊滅を目指す米軍の大空襲を受け、工場、営業所を焼失いたします。ここに至り、守隨も操業をやむなく停止いたします。

昭和20年 15代守隨すずの甥であり、後に17代となる早川登が、上海より復員いたします。長年中国で過ごし、帰ってもこれという当てのない早川登は、叔母である15代目守隨すずのすすめで秤業務への就業。守隨家では相次ぐ不幸で後継ぎがなく、早川登に守隨家の家業の引き継ぎを要請、これを受けて17代目社長、早川登のもとで、新生守隨が発足いたしました。

さらに 詳しい守隨本店 伝説と史実

さらに詳しい守隨本店の伝説と史実を2016年にまとめました。下のリンクにて計量史学会での講演資料をご覧いただけます。

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