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守隨秤座の伝説と史実

昔も今も「はかり」は守隨

明暦四年(西暦1658年)の創業以来、「はかり」一筋350年、計量器事業に注力してまいりました。
ここでは、守隨本店の歴史をご紹介いたします。弊社にご興味をお持ちいただけましたらぜひともご覧いただければ幸いです。各画面はクリックすると別ウィンドウで大きくなります。(※ポップアップのロックを解除する必要があります。設定をお確かめください)

創始時代

創始者 吉川小太夫 守隨 茂済 の伝説と史実。吉川氏はもともと、武田信玄公の父、信虎に仕える近習であった。歴史的には今川家家臣となっておりますが、その前身まで触れていいだけで、もとはれっきとした武田軍団の一員で、武将ではなかったが、信虎の秘書として近習役をしていたと言われております。この人こそが以後440年続いてきた守隨はかり座の始祖となる人です。名前の中に、守随という忌み名が入っており、これが後年、武田家滅亡時に改めて、吉川姓を守隨姓にして、新規巻き直しをはかったものと思われますがこのエピソードついては後述致します。吉川氏、駿府滞在時のエピソード。信玄公による父信虎放逐(1537年)により、近習として駿河今川家に寄寓。ここで今川家家臣といういわれが出てきた。「信虎公の面倒を見ているとき、三河松平家より、幼名竹千代、後年の家康公が人質として駿府に来ていた。今川家家人としてその面倒も一緒に見た。これが後年守隨はかり座の公認につながる縁となる。 守隨秤座の伝説と史実 株式会社守隨本店 早川静英 2016年10月14日 計量史学会

吉川氏、甲府に帰る。家康公が今川家に滞留したのは、1549年から1556年。この間のどこかで、老衰を理由に甲府に帰る。信玄公は士官を薦めるが、固辞し、はかりの製造を申し出て許される。父信虎を追放した信玄公は、信虎の近習役の守隨にも迷惑をかけたという自責の念から優遇しようとしたのかもしれません。信玄公朱印状1574年信玄公名義朱印状下付。吉川守隨の専売秤所創始。ただし、信玄公は前年に死去。喪を伏せたため。名義は信玄公となる武田家領の全般に頒布。配下に,鈴木清三郎、同与次郎、長坂善七郎。この3名はすでに秤の製造をしていたが公認されてはいなかった。どういういきさつでこのグループを裁量するようになったかは不明。(伝説としては)ただこのグループははかり製造以外に、弓矢の製作をしていたとされる。弓なども工程としては250工程あり、矢にしても結構精密な木工技術を必要とする。バランスとか重心の取り方、ひずみ取りなど棹はかりにつながる工作人であったとも言われている。世は鉄砲の時代になり弓矢には見切りをつけたのかもしれません。勝頼公朱印状。1576年、勝頼公より秤所として、あらためて朱印状を下付。1575年、初代吉川守隨死去。2代目吉川彦太郎相続。信玄公長男 義信謀反疑惑、自刃。1567年、義信自刃。父信玄公により、謀叛容疑で2年間幽閉された。罪をゆるされたが解放後,あえて自刃する。義信氏側室蜜の子、信義、吉川氏の養子になる。信玄公と対立し自刃した義信の一子、信義は、極めて危険な環境に身を置いたわけで、一時期、徹底的に隠され保護されていた。1566年、隠密裡に吉川氏の養子となる。母、

江戸時代

吉川氏逝去 1575年、初代、吉川守隨氏逝去。勝頼公自刃後の守随と徳川家康公 天正10年、AD.1582年、武田家滅亡。この時、甲斐、信濃の両国を領有した家康公は、さっそく、駿府へ吉川守隨を召し出した。 江戸にて開業、明治まで250年続く 天正10年及び11年にわたって領国の度量衡制度を整備し、はかりについては守隨を中心に本格的に展開した。天正18年、1590年。小田原落城後、豊臣秀吉の命により、徳川家国替えとなり、江戸に入った。同年それを追って、守隨家も江戸に移住、同年再び朱印状を下付される。こうして武田義信の子と生まれ、数奇な運命をたどりつつ、秤座の基礎を固めた、守隨信義は、慶長13年、1608年にいたり逝去。AD1657年1月、江戸は三昼夜にわたる、未曽有の大火災に見舞われる。10万8千人を超す死者がでた。4代将軍の居住する城の一角も燃え落ちるという惨状。江戸期を通じてこれほどの災害は2度と起きていない。このため、秤も数多く消失、もともと生産量が需要に追いつかないところにこの想定外の災害。到底、地方まで手が回らなくなってしまった。

明治時代

明暦4年尾張はかり座の創業 1658年(明暦4年、万治元年)尾張侯の要請により大火の後、経済の盛んな尾張地区にも供給がおぼつかなくなり、尾張侯の要請により、江戸より、3代目3男彦右衛門の子、治郎右衛門、手代3名を引き連れ名古屋市中区呉服町にて開業。はかりの製造を開始。尾張はかり座の創設。以来明治まで、12代、210年にわたり営業を継続する。明治元年、12代目、維新に遭遇、座としての存在、終結す。分家以来、江戸の本家に遠慮させられて、守隨姓を名乗らせてもらえなかったが、御維新を機に、明治19年6月、足立姓より改姓、守隨姓を名乗る。この時,守隨本店と号し、230年來のうっぷんを晴らしたようであります。先祖のひそみに倣っていまだ商号はその当時のままにしております。明治8年、度量衡法の発布.翌年、秤座は消滅。新時代へ。 明治時代の守隨本店社屋(名古屋広小路所在)
明治時代の守隨本店社屋(名古屋広小路所在)

婚礼家具に進出、成功。西洋式はかりの習得までの時間稼ぎ。
11代、12代と、守隨家中興の祖が活躍し、逆転の時代を切り抜け、名古屋守随は前にもまして発展する。当時、新興勢力として、西洋式はかりを製造するグループが台頭し、旧来の棹はかりしか製造できなかった守隨が、渾身の転業。最盛期、100人の職人を擁していたと言います。明治40年代には菊の紋章を製作記号として政府に届け受理された。明治30年代には西洋式はかりの製作可能となる。中興の祖。はかり製造技術の派生商品として、明治初期に、婚礼家具製造に進出。100人の職人を抱えて、はかりの製造は需要量から見てありええない規模ですが、婚礼家具ともなれば、名古屋は名うての贅沢三昧のお土地柄。しかも名家のブランドを生かし、菊の紋章ときては、争って買っていただける?こうして時間を稼ぎながら、西洋式台はかりの技術を吸収し新時代に対応できるようになっていった。 昭和初年までに代代わり、13代、を経て、14代目に入り、大東亜戦争勃発。昭和18年14代目死去。翌19年3月中部地区大空襲にて、工場、営業所焼失。昭和20年、8月、大東亜戦争終結。昭和20年9月、操業がいよいよ再開しました。

参考資料 武田一族のすべて(新人物往来社) 秤座(林英夫/著 吉川弘文館) 守隨家秤座文書(林英夫・浅見恵/著 新生社) 武田氏遺臣の研究(早川春仁/著) 名古屋秤座守隨家系録 江戸秤座跡 所在地 中央区日本橋三丁目七番地20号
江戸幕府は、秤量の基準統一を図るための秤役所「秤座」を設置しました。そして、秤の製作・販売・修理・検査などの独占権は、江戸秤座の「守隨家」(東国三十三か国)と京都秤座の「神家」(西国三十三か所)に分掌させ、全国の権衡(けんこう)制が統一されました。
甲斐武田氏の家臣として秤の製造を業としていた守隨家は、徳川家康の関東入国とともに江戸へ出て、幕府公認の秤座を開設いたしました。その後、幕府は承応2年(1653)に江戸・京都の両秤座を定め、江戸秤座は守隨家が任にあたりました。
江戸秤座の場所は、京橋の具足町(現在の京橋三丁目)に設置された時期もありましたが、江戸後期から明治八年(1875)の度量衡取締条例による秤座廃止まで、箔屋町(現在地である日本橋三丁目)の地に置かれていました。
当地は、江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として、中央区民文化財に登録されています。参照 中央教育委員石碑文

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